2014年 02月 27日
割合 |
長女の算数をみてやった。
小5の算数は今「割合」。分数を実際的につかう初めての機会であると同時に、はじめて観念的なことにふれる場面でもあり、多くのこどもたちがむずかしいと感じる分野かもしれない。「もとにする数」という定義がそもそもこどもにはなれない考え方であり、おまけに全体を1として分数や小数で比率を考える場合に加え、10割を基準に考えるケースや、100%が基準となる百分率など、物差しだけでも3通りもあるため、すっかり解らなくなってしまったようであった。
娘に勉強を教えながら、「どんな場面で人は割合を考え始めたのだろう?」と思い、日頃おおらかでフランクな印象のある西欧の物差しの方が、細かいことにこだわりがちに思える日本人の物差しよりも細かい理由って一体なんだったのだろうとしばらく考えた。
はじめて人が比率を考えるきっかけになった出来事って、たぶん「料理」ではなかっただろうか。偶然素晴らしい味の料理ができたとき、再度同じ味を作れるように味を数値化したいと考えるのは自然なことだし、人数の違う家族に料理を教える際、一人あたりの調味料やら、材料の比率を一般化する必要があったと思われるからである。日本は煮物文化の国なので、味の調節はあとから効くこともあり、基準値は両手で数えられる10を超えることはなかったけれども、西欧の主食はパンであり、粉と塩の配分が最終的な味を決定づけてしまう。そして材料と塩の重量比を考えるとき、その物差しは自然と100になったということではなかったのだろうか。
そういえば、パンというものは作るときの粉の配分などは細かいが、焼きあがってしまえばそれを何人できりわけてシェアするかというのは、とても自由である。西欧風のパーティなどをみると、彼らはお客が何人来ようと全く意に介せずという風にみえる。彼らのおおらかさの原因はそのあたりにあるのかもしれない。
対して日本の食文化は椀で食する文化である。よって何人の客が来るかを事前に察知し、準備をしたいと考えることが自然だし、ある意味最初から結果を予測して動くことが求められてきた。そのあたりが「談合体質」を育ててきたような気がする。
日常的な食文化が国民性に与える影響はとても大きかっただろう。外国の料理が日常的に食されるようになって久しいわけだが、日本人が本当の意味で国際化する日は来るのだろうか?
小5の算数は今「割合」。分数を実際的につかう初めての機会であると同時に、はじめて観念的なことにふれる場面でもあり、多くのこどもたちがむずかしいと感じる分野かもしれない。「もとにする数」という定義がそもそもこどもにはなれない考え方であり、おまけに全体を1として分数や小数で比率を考える場合に加え、10割を基準に考えるケースや、100%が基準となる百分率など、物差しだけでも3通りもあるため、すっかり解らなくなってしまったようであった。
娘に勉強を教えながら、「どんな場面で人は割合を考え始めたのだろう?」と思い、日頃おおらかでフランクな印象のある西欧の物差しの方が、細かいことにこだわりがちに思える日本人の物差しよりも細かい理由って一体なんだったのだろうとしばらく考えた。
はじめて人が比率を考えるきっかけになった出来事って、たぶん「料理」ではなかっただろうか。偶然素晴らしい味の料理ができたとき、再度同じ味を作れるように味を数値化したいと考えるのは自然なことだし、人数の違う家族に料理を教える際、一人あたりの調味料やら、材料の比率を一般化する必要があったと思われるからである。日本は煮物文化の国なので、味の調節はあとから効くこともあり、基準値は両手で数えられる10を超えることはなかったけれども、西欧の主食はパンであり、粉と塩の配分が最終的な味を決定づけてしまう。そして材料と塩の重量比を考えるとき、その物差しは自然と100になったということではなかったのだろうか。
そういえば、パンというものは作るときの粉の配分などは細かいが、焼きあがってしまえばそれを何人できりわけてシェアするかというのは、とても自由である。西欧風のパーティなどをみると、彼らはお客が何人来ようと全く意に介せずという風にみえる。彼らのおおらかさの原因はそのあたりにあるのかもしれない。
対して日本の食文化は椀で食する文化である。よって何人の客が来るかを事前に察知し、準備をしたいと考えることが自然だし、ある意味最初から結果を予測して動くことが求められてきた。そのあたりが「談合体質」を育ててきたような気がする。
日常的な食文化が国民性に与える影響はとても大きかっただろう。外国の料理が日常的に食されるようになって久しいわけだが、日本人が本当の意味で国際化する日は来るのだろうか?
by kenzo_stsk
| 2014-02-27 14:25
| ■文化

