2007年 06月 10日
外からみえる“Save the 下北沢”について考える |
日本大学芸術学部の方から共同研究レポートを送っていただいた。

これは9人の学生さんたちが執筆した、下北沢の研究レポート。世田谷区や下北沢のまちでの取材などもおこなった上で、下北沢問題が彼らの目にどう映ったかがまじめに書かれていた。レポートは行政と“Save the 下北沢”の言い分について並列でならべ、「なぜこのような対立がおこっているのか?」ということと、「対立の根本はなんなのか?」ということについて考察している。
彼らはそれを「下北沢」というまちの文化をどう捉えるか?という価値基準が共有されていないことが原因であろうと考えた。そして、下北沢の文化を定義するために、他の4つの都市(渋谷・立石・京都・吉祥寺)などと比較しながら考え、下北沢の文化を理解しようと試みている。そして、最終的には「結局文化を残すべきかは時代が決めることであり、本当に良い文化ならば、生き残っていくのだろう」と結論付けている。
僕は彼らの6ヶ月にわたるまじめな試みを軽んじる気は全くないし、彼らが感じたことや、その結果出した結論に対して異議を唱えるつもりもない。しかし、「6ヶ月間僕らのやっている運動を真剣にみた結果、それが文化の保存運動にしかみえなかった」というのならば、それはちょっと問題だと思った。
“Save the 下北沢”という名称が誤解を生じさせるのかもしれないが、僕たちは「下北沢やその文化の保存運動」をやっているつもりなんて、これっぽっちもないのである。
力のなさを感じる今日この頃。

これは9人の学生さんたちが執筆した、下北沢の研究レポート。世田谷区や下北沢のまちでの取材などもおこなった上で、下北沢問題が彼らの目にどう映ったかがまじめに書かれていた。レポートは行政と“Save the 下北沢”の言い分について並列でならべ、「なぜこのような対立がおこっているのか?」ということと、「対立の根本はなんなのか?」ということについて考察している。
彼らはそれを「下北沢」というまちの文化をどう捉えるか?という価値基準が共有されていないことが原因であろうと考えた。そして、下北沢の文化を定義するために、他の4つの都市(渋谷・立石・京都・吉祥寺)などと比較しながら考え、下北沢の文化を理解しようと試みている。そして、最終的には「結局文化を残すべきかは時代が決めることであり、本当に良い文化ならば、生き残っていくのだろう」と結論付けている。
僕は彼らの6ヶ月にわたるまじめな試みを軽んじる気は全くないし、彼らが感じたことや、その結果出した結論に対して異議を唱えるつもりもない。しかし、「6ヶ月間僕らのやっている運動を真剣にみた結果、それが文化の保存運動にしかみえなかった」というのならば、それはちょっと問題だと思った。
“Save the 下北沢”という名称が誤解を生じさせるのかもしれないが、僕たちは「下北沢やその文化の保存運動」をやっているつもりなんて、これっぽっちもないのである。
力のなさを感じる今日この頃。
by kenzo_stsk
| 2007-06-10 15:48
| ■文化
|
Comments(16)

Saveと言い出したのは『保存せよ』ではなく
『救え』との思いからだったのですが、
(旗揚げ当初はこういう話をよくしましたよね)
保存運動に見えたとしたら僕も悔しいです。
『救え』との思いからだったのですが、
(旗揚げ当初はこういう話をよくしましたよね)
保存運動に見えたとしたら僕も悔しいです。

う〜〜ん、
それでは「ナニ運動」ののだろうか?
ただ、シンプルにそうに思ったので・・・
それでは「ナニ運動」ののだろうか?
ただ、シンプルにそうに思ったので・・・
Saveという言葉に引きずれたとしても、裁判とも連動しているわけだし、そのリポートにかぎらず、どうも物事の政治的な面を見ることを忌避する傾向があるような気がします。

同じ言葉でも、人によって違う意味で使っていることがありますよね。下北沢の文化が車を入れない、歩いて楽しい路地文化なのだとすれば、下北沢の運動を文化の保存運動と解釈する人もいるかもしれないし、道路とビルのまちへの再開発に対する反対運動を略して反対運動というのであれば、問題ないと思います。お互い違う意味で同じ言葉を論じるとすれ違うかと思います。

金子さんのことばには、「怒り」が感じられるような気がするのですが、もしほんとうに字面とおりそう見えることに対して大きく「反省」感じていられるのであれば、何回もいってますけど何か力になれることがあればいくらでもお手伝いしますけど・・・
saveということばには、確かに「保護する」という意味もありますから保存するというニュアンスはたしかにあると思います。
ただ、おれが疑問なのは、「文化の保存運動」だったらなにがいけないんですか?
問題にされ、検証されるべきなのは、その動機が社会的に見て受け入れられるものなのかどうかということではないですか?
そしてそれとは別なところに、現行の計画において不備があるので正すことを主張する、というのがあるのではないでしょうか?
saveということばには、確かに「保護する」という意味もありますから保存するというニュアンスはたしかにあると思います。
ただ、おれが疑問なのは、「文化の保存運動」だったらなにがいけないんですか?
問題にされ、検証されるべきなのは、その動機が社会的に見て受け入れられるものなのかどうかということではないですか?
そしてそれとは別なところに、現行の計画において不備があるので正すことを主張する、というのがあるのではないでしょうか?

だいごさんの書いてられることと同じことだと思いますけど、上の2つははっきりと分けて話をするべきだと思います。
もちろんこの2つは連動しますけど、ちゃんと分けて論じ、うまくれ連動させることが出来ないから運動が大きく盛り上がらないのではないでしょうか?
もちろんこの2つは連動しますけど、ちゃんと分けて論じ、うまくれ連動させることが出来ないから運動が大きく盛り上がらないのではないでしょうか?

とか、書いたらまた金子さん怒っちゃうのかなぁ・・・
だったら申し訳ないけどまったくそんなつもりはないですけどね、
おれはおれなりにROJ山崎さんの論旨も理解できるし、そんな過敏にならずに冷静に世の中の反応を理解し対処してほしいと真剣に思うから書いてんですけどね。
とか、かいたらもっと怒っちゃうのかなぁ・・・なるべくそうならずに読んでいただくことを真剣にお願いしたい。
だったら申し訳ないけどまったくそんなつもりはないですけどね、
おれはおれなりにROJ山崎さんの論旨も理解できるし、そんな過敏にならずに冷静に世の中の反応を理解し対処してほしいと真剣に思うから書いてんですけどね。
とか、かいたらもっと怒っちゃうのかなぁ・・・なるべくそうならずに読んでいただくことを真剣にお願いしたい。

キャッチフレーズとかは受け手の想像力に任せる部分があって当然だと思うので、解釈の仕方を強要するようなことはナンセンスだし、広くアピールする時には誤解されることがしばしばあるのも当たり前、くらいの辛抱強さが必要だと思います。
ただ、以前“Save the 下北沢”に触れた雑誌の記事に、「地下化反対」というプラカードを掲げたイラストが添えられてた時は、一切の変化を拒んでいるような印象だったので、さすがに「どうせ記事にするのならもうちょい丁寧に取材してくれないかな〜」と思ったことがありました。
例えば「せっかく小田急の地下化で広い跡地が生まれるのに、
その運用についてはぼかしたまま、街を分断しちゃう道路を新しく作ることに猛進してるのは、納得いかない」
というようなことを簡潔に広く関心を集めるようなアピールができれば良いのでしょうが、これがけっこう難しいんですよね。
ただ、以前“Save the 下北沢”に触れた雑誌の記事に、「地下化反対」というプラカードを掲げたイラストが添えられてた時は、一切の変化を拒んでいるような印象だったので、さすがに「どうせ記事にするのならもうちょい丁寧に取材してくれないかな〜」と思ったことがありました。
例えば「せっかく小田急の地下化で広い跡地が生まれるのに、
その運用についてはぼかしたまま、街を分断しちゃう道路を新しく作ることに猛進してるのは、納得いかない」
というようなことを簡潔に広く関心を集めるようなアピールができれば良いのでしょうが、これがけっこう難しいんですよね。
>つばきさま
なんか僕がいつも怒っているみたいでやな感じだなぁ(笑)
今回のつばきさんの論旨はとても明快で良くわかりました。
まず僕の立ち位置から確認すると「怒り」ではなくて、「反省(やや疑問)」というニュアンスの位置にいるように思います。
>ただ、おれが疑問なのは、「文化の保存運動」だったらなにがいけないんですか?
これは結果として文化は保存されるのかもしれないけれど、それはあくまで結果であって、僕らは文化をそれほど明確に定義できるわけではないし、そういう意味で「文化の保存運動」をやっているつもりはないという意味です。
だから本人たちとしてはご指摘のように「現行の計画において不備があるので正すことを主張する」運動をしているつもりなのだけれど、いつも多くの方に「現行の計画に不備がある」点についてはごっそり抜け落ちた形で僕らの運動を文化という点だけで語られてしまうのは、なぜなんだろうと不思議に思っているということでしょうか?
なんか僕がいつも怒っているみたいでやな感じだなぁ(笑)
今回のつばきさんの論旨はとても明快で良くわかりました。
まず僕の立ち位置から確認すると「怒り」ではなくて、「反省(やや疑問)」というニュアンスの位置にいるように思います。
>ただ、おれが疑問なのは、「文化の保存運動」だったらなにがいけないんですか?
これは結果として文化は保存されるのかもしれないけれど、それはあくまで結果であって、僕らは文化をそれほど明確に定義できるわけではないし、そういう意味で「文化の保存運動」をやっているつもりはないという意味です。
だから本人たちとしてはご指摘のように「現行の計画において不備があるので正すことを主張する」運動をしているつもりなのだけれど、いつも多くの方に「現行の計画に不備がある」点についてはごっそり抜け落ちた形で僕らの運動を文化という点だけで語られてしまうのは、なぜなんだろうと不思議に思っているということでしょうか?
クダンのレポートを読んでもいないので、「構造」もつかめないのだけれど、Bee'sWingさんが指摘されていることにヒントがあると思います。
ただし、「忌避」というよりは、日本の社会では公共事業のシステムを変えて行くための回路なり手順なりルール等が、まだほとんど確立されていないという現実があるということの方が先で、それを対象化するのは、日芸の学生さんたちには、ちょっと荷が重すぎたのかな⋯⋯という気はします。
具体的には、いろんな法律や条例等の条文にも「市民参加」だとか「住民参加」というコトバだけは出てきますが、これにかかわる制度全体のデザインや、運用の実態を見ると、これらのコトバがまったくの空手形にすぎない状態になってしまっている⋯⋯ということが問題の核心であるように思えます。
ただし、「忌避」というよりは、日本の社会では公共事業のシステムを変えて行くための回路なり手順なりルール等が、まだほとんど確立されていないという現実があるということの方が先で、それを対象化するのは、日芸の学生さんたちには、ちょっと荷が重すぎたのかな⋯⋯という気はします。
具体的には、いろんな法律や条例等の条文にも「市民参加」だとか「住民参加」というコトバだけは出てきますが、これにかかわる制度全体のデザインや、運用の実態を見ると、これらのコトバがまったくの空手形にすぎない状態になってしまっている⋯⋯ということが問題の核心であるように思えます。
続きです:
注意してほしいのは、この「現実」は自治体によって、とくに首長の見識や力量によって大きく左右されると考えられますが、世田谷の場合は、不幸にして、大いに問題アリの区長による区政が長期にわたって続いているということでしょうね。
木下区議が再三指摘していることですが、現在の熊本区長だけが悪いのではありません。これに先立つ、7期にもわたって続いた大場区政の問題点も合わせて、しっかり検証する必要があると思います。
——それをテーマとするレポートに名を付けるとすれば、「世田谷の悲劇」以外にはないかも知れません。まずこのレポートが書かれていて、それを参照することができたなら、日芸の学生さんたちのレポートも、より説得力のあるものになったに違いありません。
とはいえ、「まちの文化をどう捉えるか?という価値基準が共有されていないことが原因」という分析自体は、間違ってはいないと思います(それだけが原因ではないにしても)。ただ、では、なぜ価値基準が共有されえないのか⋯ということに、多少でも論及するか、ある程度の見通しだけでも示されているとよかったですね——。
注意してほしいのは、この「現実」は自治体によって、とくに首長の見識や力量によって大きく左右されると考えられますが、世田谷の場合は、不幸にして、大いに問題アリの区長による区政が長期にわたって続いているということでしょうね。
木下区議が再三指摘していることですが、現在の熊本区長だけが悪いのではありません。これに先立つ、7期にもわたって続いた大場区政の問題点も合わせて、しっかり検証する必要があると思います。
——それをテーマとするレポートに名を付けるとすれば、「世田谷の悲劇」以外にはないかも知れません。まずこのレポートが書かれていて、それを参照することができたなら、日芸の学生さんたちのレポートも、より説得力のあるものになったに違いありません。
とはいえ、「まちの文化をどう捉えるか?という価値基準が共有されていないことが原因」という分析自体は、間違ってはいないと思います(それだけが原因ではないにしても)。ただ、では、なぜ価値基準が共有されえないのか⋯ということに、多少でも論及するか、ある程度の見通しだけでも示されているとよかったですね——。
>つばきさん
今回の問題提起も、スリリングで面白いです!
ただ、kenzoさんのレスにあるように、ひと口に「文化」といっても、下北沢ではとくに、対象が特定しにくい(だけであって、まったく不可能だとは思いません)という困難があると思います。
>問題にされ、検証されるべきなのは、その動機が社会的に見て
>受け入れられるものなのかどうかということではないですか?
とのご指摘は、とても重要だと思います。
もちろんぼくたちは、ぼくたちの動機は十分に社会に受け入れてもらえるはず⋯と信じてやっているのですが、伝え方はあまりうまいとも言えず、かなり拙いというのが実際かも?と反省してみる必要もありそうだな⋯と思っています。
今回の問題提起も、スリリングで面白いです!
ただ、kenzoさんのレスにあるように、ひと口に「文化」といっても、下北沢ではとくに、対象が特定しにくい(だけであって、まったく不可能だとは思いません)という困難があると思います。
>問題にされ、検証されるべきなのは、その動機が社会的に見て
>受け入れられるものなのかどうかということではないですか?
とのご指摘は、とても重要だと思います。
もちろんぼくたちは、ぼくたちの動機は十分に社会に受け入れてもらえるはず⋯と信じてやっているのですが、伝え方はあまりうまいとも言えず、かなり拙いというのが実際かも?と反省してみる必要もありそうだな⋯と思っています。

「結局文化を残すべきかは時代が決めることであり、本当に良い文化ならば、生き残っていくのだろう」は、「たとえ補助54号線その他が計画通り作られても、残るべきものなら『シモキタ』は生き残ることであろう」ということではないかと、私には読めます。「下北沢のような街」が「時代遅れ」なのかどうかということなのですが、現在下北沢で営業している小規模事業者や築後経年で賃料の安い住居が、時代に取り残されないものなのか。そうしたものが、シモキタを支える重要な要因であるように思えるだけに、懸念があります。
下北沢地区計画等反対運動が「文化保存運動」ではないことぐらいは学生さんたちもわかっていると思います。もちろん、もとのレポートを読んでいないので、以上は想像の範囲を出ないのですが。
下北沢地区計画等反対運動が「文化保存運動」ではないことぐらいは学生さんたちもわかっていると思います。もちろん、もとのレポートを読んでいないので、以上は想像の範囲を出ないのですが。
>If we can't sav‥さま
>時代に取り残されないものか‥
もし時代の流れに合わない保存の制度などを実施した場合は、そういう心配は確かにあるでしょう。しかし、上手に変わっていくことに否定的にさえならなければ、時代の流れとともに街の新陳代謝はおこり、そういう心配はあまりないのだろうと僕は考えています。そういう意味で、私達は「まちが変わること」に否定的ではありません。しかし新規道路の問題や高層化の容認など、まちの成り立ちや現在の骨格でさえも、大きく変化させてしまうようなことに対しては、とても慎重であるべきだと私は思うのです。貴兄の文書を拝借して私の気持ちを述べるならば、「たとえ補助54号線その他が計画通り作られなかったとしても、本当に必要なものならば、いつか再び建設は必要になってくるであろう(だから今はそれを見極めるためにも、一時凍結して時代とまちの変わりようを眺めさせてほしい)」ということになりましょうか。病気でもないのに、いたずらにメスをいれようとする医者に出会ったら、誰しもそういいたくなるんじゃないかな?
>時代に取り残されないものか‥
もし時代の流れに合わない保存の制度などを実施した場合は、そういう心配は確かにあるでしょう。しかし、上手に変わっていくことに否定的にさえならなければ、時代の流れとともに街の新陳代謝はおこり、そういう心配はあまりないのだろうと僕は考えています。そういう意味で、私達は「まちが変わること」に否定的ではありません。しかし新規道路の問題や高層化の容認など、まちの成り立ちや現在の骨格でさえも、大きく変化させてしまうようなことに対しては、とても慎重であるべきだと私は思うのです。貴兄の文書を拝借して私の気持ちを述べるならば、「たとえ補助54号線その他が計画通り作られなかったとしても、本当に必要なものならば、いつか再び建設は必要になってくるであろう(だから今はそれを見極めるためにも、一時凍結して時代とまちの変わりようを眺めさせてほしい)」ということになりましょうか。病気でもないのに、いたずらにメスをいれようとする医者に出会ったら、誰しもそういいたくなるんじゃないかな?

> 病気でもないのに、
「どうして病気ではないとみるか」もちゃんと押さえとかないと説得力は弱いですよ。、KENZOさん。
なぜって、避けられない自然の代謝の結果なのかもしれないけど、じっさい死んで行く細胞もあるわけだから・・・(比喩ですけど)。
僕個人としては、お洒落で個性的なお店の数々やライブ・ハウスなんかがこんないっぱいなくとも、若者であふれていなかった頃のシモキタのが勿論好きでした、、あえて比べさせてもらうのなら。
だけど、こうした計画の是非を話し合うときには、もちろん趣味や好き嫌いだけで発言しても説得力があるわけはない。
要するに、「ビルだらけの『ミニ副都心』みたいな街のほうが、雑然とした個性的な街よりいい」という意見、または多少でもそういうベクトルを持った意見が住民・利用者の中にある(だろう)と認めたうえで、それが妥当であるかどうかを論じなければいけないのではないのだろうかということです。
「どうして病気ではないとみるか」もちゃんと押さえとかないと説得力は弱いですよ。、KENZOさん。
なぜって、避けられない自然の代謝の結果なのかもしれないけど、じっさい死んで行く細胞もあるわけだから・・・(比喩ですけど)。
僕個人としては、お洒落で個性的なお店の数々やライブ・ハウスなんかがこんないっぱいなくとも、若者であふれていなかった頃のシモキタのが勿論好きでした、、あえて比べさせてもらうのなら。
だけど、こうした計画の是非を話し合うときには、もちろん趣味や好き嫌いだけで発言しても説得力があるわけはない。
要するに、「ビルだらけの『ミニ副都心』みたいな街のほうが、雑然とした個性的な街よりいい」という意見、または多少でもそういうベクトルを持った意見が住民・利用者の中にある(だろう)と認めたうえで、それが妥当であるかどうかを論じなければいけないのではないのだろうかということです。
>つばきさん
ご意見至極ごもっともです。この件に関しては、書きはじめると相当長くなりそうなので、あらためて別立てのエントリーとして書くことにしますね。というのは商業の話や防災の問題など、話は多岐にわたりますし、実は以前「商業地としての下北沢を考える」というようなテーマの勉強会をした時の講演会資料なども、ホームページにまとめたいと考えながら、まだ手元に眠ったままであるという事情があります。少し時間をかけて、しっかりとしたものをおみせしたいと考えました。 しばらく時間をください。
ご意見至極ごもっともです。この件に関しては、書きはじめると相当長くなりそうなので、あらためて別立てのエントリーとして書くことにしますね。というのは商業の話や防災の問題など、話は多岐にわたりますし、実は以前「商業地としての下北沢を考える」というようなテーマの勉強会をした時の講演会資料なども、ホームページにまとめたいと考えながら、まだ手元に眠ったままであるという事情があります。少し時間をかけて、しっかりとしたものをおみせしたいと考えました。 しばらく時間をください。